JDです。
ブログ界では禁じ手(たぶん)の自分語り。少しは必要だけどやり過ぎると嫌われる自分語り。手を出してみちゃう。
一番大きいのは自分に発破をかけるため。
それと自己紹介。
シリーズ「大変だった頃のこと」
だいたいこういう予定です。
- 【今回】イマドキ企業の24階で法務屋をしてた頃のこと
- 一般職化して旧時代の「普通の幸せ」を夢見た頃のこと(4/3予定)
- 結婚妊娠出産 + 異動 で退職勧奨状態を味わった頃のこと
- 今思えばガラスの天井 待ち切れずに独立起業した頃のこと
江戸の敵は長崎で獲っていこう!と。そういう考えであります。
再び地獄を見るの嫌なので、法律資格取得のモチベーションを確たるものにしておきたい。先への備え。そして心のデトックスしたい。もうね、こんなの性格歪むわ!っていう時期もありましたのでね。
今回:イマドキ企業の24階で法務屋をしてた頃のこと
学卒後は、IT系の会社で、法務マンをしていました。もっとも、前半は、典型的な企業法務というより、超でかいコンシューマビジネスやってる会社でないと発生し得ない業務…個人顧客向けの契約約款なんかを中心に担当していました。
後半は場所を変えて、典型的法務部業務に。裁量も大きかったし、管理職を視野に…みたいな気持ちもあったのですが、が、が、、、
総論
前半は生き急ぐ感じの二年半でした。。
たぶん、新卒入社から二年半で、あれだけの規模のサービスの契約約款を任されるというのは空前絶後、他にそう例がないと思われます。そういう規模のサービス自体がそう数がないし、普通はその場合、ある程度安心して任せられるキャリアのスタッフに任せるモンではないかと。
色んな巡り合わせて担当することになったのですが、レバレッジ利いてる感じで、それはそれは良い経験になりました。
ホントは社名出すと、それだけでBuzzれるんじゃないかというお騒がせ企業だけど、なんというか経歴売り芸みたいなのしたくない(理由:不義理しそうだし短命そう)ので、然るべきときまでは止めておきます。
学歴がイマイチだったので、潜り込めそうなところを探していた。
こんなこと言うと同窓の方に申し訳ないのですが(と言っても友達がいなかったので気分的な躊躇は、正直ゼロ笑)、
学歴がイマイチでした。
2ちゃんねらーなら、鼻で嗤うだろよ。な学歴でした。ねらーはどうでもよいが。自慢できるほどではないのは確か。 …イマイチというか、本意ではなかった。
しかも卒業した2003年当時、就職氷河期だったので、高校からの友人は就職を見送り院進学が多数。そこを羨ましく横目で見つつ、身の入らない就職活動でした。ブログ専業は薦めない、なんて言いつつ、正直、今の大学生・大卒ブロガーの心理はよく分かる。
勢いがあるけど混乱してそうな戦時下企業を探したら、あった。
ところが渡りに船っつうのはあるもんですねぇ。
法務部スタッフというと、学歴を求められるのが普通だと思います。お勉強力を下地に仕事するところなので。入ったとこも、私の後は、総合職は低くて上智、MARCHでした。それでも、重厚長大気味な各社に比べると、ライトな乗りですよね。
望み薄だったんだけれども、今思い返しても面接は会心の出来だったと思います。それも手伝って、なんとか潜り込めました。
無事に法務の仕事をゲット。期待通り、年齢・性別に関係なく任せてもらえる文化だったのは良かったけれど。
今思えば、角川書店とかもけっこう選考通過してたので、我ながらイマイチ学歴にしては健闘してたじゃんとか自画自賛しますけども。
どさくさに紛れて法務部に入れたけれども、単なる運だけではなく、そういや途中で同期が脱落してたり(しかも希望して転属してきた人)するので、色々と頑張ってたなー俺…と思います。
たまたま空いてた、売り出し中の基幹事業・メインサービスの約款担当にアサイン。売上が大きいことと難易度はイコールではないけれども兎も角。当時は一応、新聞に載りまくりの商品でした。実際、時代を拓いたと自負しています。
それは良かったんですが、マァ修羅場でした。
並行して、主務官庁相手の許認可手続の後方支援とか、広報・宣伝の媒体チェック(景表法だの)(この業務はフロントで)とか。色々、色々…。勤怠的にも完全に過重労働気味で、ヘロヘロで帰宅して、バランス釜の風呂を沸騰させたりしてました。ついてた上司が厳しい人だったので、パワハラ説が流れてたりしたみたいです。が、実際は、今でも尊敬していて、なんならFBでも繋がっている上司です。
後半は特殊事業兄弟会社に出向
親が、事業戦略上のなんやかんやで、え!?みたいな全然違う業界の企業を買収。進駐軍として、出向しました。
そこでは、最初二年半ほどオーバーワークではなかったし、裁量も大きかったし、法務部らしい法務部の仕事ができたので、満足しています。立場的なものもあったので、という言い訳だけれども、けっこう偉そうにしていたらしく、とっくに30歳過ぎていると見られてましたが、私にとって褒め言葉でした。舐められたくなかった。
それでも、そこは割と男尊女卑文化の会社だったので、同じ発言を横の上司にもう一回言わせないと、会議参加者の動作が停止してしまうということがよくあったように思います。
会社が伸びると従業員の待遇が伸びる。というわけではない、という盲点。
コレな。
サラリーマン生活最高の失策は、「この会社伸びる!!」という読みが当たったとしても(それだけでもラッキーだけど)、それに伴って従業員の待遇が上がるとは限らない、ということです。ピュアな大学生だった私は、入社前、そこまでは思い至りませんでした…。なんという落とし穴。
統計上は伸びてることになっているのかもしれませんが、それは多分、会社の名前が売れてきてから入った人に引っ張られてるんだと思います。中途のシニアスタッフとか、完全に有名企業化してから入ってきた有名大卒の新人とか。 …大変だった戦時中に入ってきた軍人型スタッフは、待遇の手当てを後回しにされたまま、次の戦場を探して離職した人が多いです。そして、その後、独立・起業して成功している人が多い。先輩の一人は政界入りしてます。
結論:この時期は大変だったけど楽しかった。
けっこう波乱万丈系で、「ラクして退屈するより、面白いほうが良いや」と思っていた私には、ピッタリでした。程度問題を除けば。
普通では得られないような経験を多く積めました。
なんやかんやと華やかでした。
その頃はまだ高く売れたし
そういわけで、大変な割には待遇が不満だったので、終盤には転職活動をしています。第二新卒枠。
某メガバンクに内々定を獲りました。それはそれは話していて尽きることがない武勇伝があったし、ペーパーテストが幸運にも知識量テストではなく思考力テストだったので、そりゃあもう抜群の成績を残しましたともよ。大阪支店だの八重洲?の本店だの、半沢直樹の世界を垣間見れて、選考過程自体、けっこう楽しかった。
なんだけれども、その後決断して…
(追記)だいたいこういう時代のお話です
これすごい。超力作。もっとインフラ系にも光を当てて欲しいけど、インフラっつうのは、縁の下の力持ち系だし、Y!さんはウワモノだし、しょうがないかな。ちゃんと社長の肖像(?)が載っている。 >> インターネットの歴史 History of the Internet – Yahoo! JAPAN http://docs.yahoo.co.jp/20years/
動機付けその1:「あの頃がピークだった」ってボヤキたくない!!
新卒入社から5年間がピークだったとか、悲しすぎる。
今は今で経営者として充実した日々だと思うのですが、世間的に経営者と認められにくい事情があって。その話は、たぶん動機付けその4になるんだと思います。
司法書士士資格を取って、もう一旗あげたいと思う次第です。
シリーズ毎週日曜20時更新:「大変だった頃のこと(2)」に続く…笑